井波彫刻とは① 井波彫刻の原点・瑞泉寺と祈りのかたち
富山県南砺市井波で受け継がれてきた井波彫刻。
精緻、繊細、そして時としてダイナミック。井波彫刻を代表する「欄間」は、わずか数センチの厚みの板から削り出されたとは思えない立体感と躍動感があります。
現在は国指定の伝統工芸となっており、井波の町は「彫刻師の町」として文化庁の日本遺産にも登録されています。町のメインストリートである八日町通りを歩けば、通りには工房が立ち並び、ノミを打つ音が聞こえ、彫刻師たちの巧みな技を垣間見ることができます。

「型」ではなく「技術」
では、井波彫刻とはどのような彫刻なのでしょうか。
ある大ベテラン彫刻師の方は、井波彫刻を「技術である」と表現しました。
「これを作らないといけない、こうでなくてはいけない」というような決まった「型」があるものではなく、彫刻技術そのものが井波彫刻の本質だと言います。
伝統工芸というと、食器や籠、布地など、日用品として決まった「型」を職人が量産する「職人仕事」のイメージが一般的です。日用に供される雑貨類として、機能美を携え、ハレの日のための美しさも追及されてきました。
経済産業省のサイトでも、伝統工芸とは「地域で受け継がれてきた伝統の技と材料を使い、職人が手仕事でつくる生活用品」と定義されています。
※出典:https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/nichiyo-densan/index.html
しかし、井波彫刻で従来主に作られてきたものは、社寺の装飾彫刻や、住宅用の欄間、衝立などの建築彫刻でした。彫刻と聞くと美術館等で見る立像を想像しがちですが、井波彫刻はこうした建築装飾を中心に発展しました。これは、そのルーツが寺院建築の装飾彫刻にあったという点が大きいのではないでしょうか。

瑞泉寺と人々の祈り

なぜ、これほどまでに精緻で繊細な彫刻技術がこの地に生まれたのか。その根底には、人々の日々の篤い信仰心と祈りがあるように思います。
井波彫刻の始まりは、井波のランドマークである名刹・瑞泉寺にあります。
瑞泉寺は1390年に、京都・本願寺から来た綽如上人によって開かれた浄土真宗の寺院です。越中、浄土真宗という背景は、一向一揆を思い浮かべるように、まさしく瑞泉寺も時代の流れの中で一向宗の重要拠点となった寺院でした。(瑞泉寺自体の歴史は別項をご参照ください)
瑞泉寺は度々火災に見舞われ、そのたびに井波の人々によって再建されてきました。
井波彫刻の起こりとなる契機は、1762年の町からの出火による二度目の火災でした。
その再建の際、京都の東本願寺から派遣された彫刻師、前川三四郎が、番匠屋七左衛門ら井波の大工に彫り物を伝えたのが井波彫刻のはじまりとされています。
瑞泉寺山門正面の唐狭間(からさま)『雲水一疋龍』は前川三四郎作、勅使門の『獅子の子落とし』は番匠屋七左衛門作と伝えられ、これらは装飾彫刻の傑作として知られています。

前川三四郎の技術伝承はもちろん重要ですが、それ以前から瑞泉寺の再建で培われてきた井波大工の確かな技術があったからこそ、今日の井波彫刻の基礎ができたといえるでしょう。
技の粋を究めた美
美しい浄土を現世に表すかのように、彩色を施さず技の粋を究めた瑞泉寺の彫刻の数々は、素木であるにもかかわらず、色彩の概念を超える鮮やかさ。それは、当時の井波の職人ひとりひとりの祈りの結晶のようにも感じられます。

このように、浄土を再現するかの如く精緻に作り上げられた装飾彫刻の技術は、やがて加賀藩の目にとまり、全国に知られるところとなり、今日にいたる井波彫刻が形作られていきました。
ある彫刻師の方に、「井波らしさ」について尋ねたことがあります。
返ってきたのは、「自分達のまちは自分達で守る、自分達でつくる。そういう気概が井波らしさだと思う。」という言葉でした。
当時を知らない私が、当時の人たちの想いを一口に言ってしまうのはあまりにおこがましい気がしますが、浄土の教えを心のよりどころとし、動乱の時代を互いに支え合い生きてきた人々の祈りの場として、瑞泉寺は焼き払われようとも再建したいシンボル、かけがえのない場だったのでしょう。
太子伝会や報恩講などの寺の行事が、当時の人々にとって集い、心を通わせる大切な場でもあったように、そうした集いの中で育まれた精神風土が、この地には今も根付いているように思うのです。